われ思う、ゆえに何者にもあらず。
経営者が「尊敬する人」として挙げる名前の多くは、われわれもよく知っています。たとえば、盛田昭夫さん、本田宗一郎さんなど。
「二宮尊徳」(二宮金次郎)を挙げる人もいます。薪を背負って歩きながら本を読む銅像は、むかし校庭でよく見たものです。(基本は銅像ですが、戦時中「金属は拠出せよ」とのお達しにより、石川県では九谷焼の像に替わったところもあるとか。それはそれで、見てみたいですが。)
しかし、この金次郎さん、どうも道徳臭くて苦手意識がありました。
「本を読みながら歩くって、歩きスマホじゃないか」
なんて、私は1秒も思ったことはありませんが、松下幸之助さんも「二宮尊徳から経営を学んだ」と言われていたと知り、弟子が書き留めた金次郎さんの教えを読んでみました。
読んで、いままで敬遠していたことを反省しました。ロジカルだけどハートがあり、知情意の備わった人です。
「じゃあ、学んだことを言って見ろ」
と言われると、実は3か月でほぼ忘れました。記憶力のせいですが、もっと大きな理由は、あるひとつの教えが衝撃的すぎて、ほかのすべてを吹き飛ばしてしまったからです。こんな感じです。
悪事を思いついても、やらなければ悪人ではない。それと同じく、善事を思いついても、やらなければ善人ではない。
まじか。
私はまったく善人ではありません。いままで自分は勝手に善人のはしくれと思ってきましたが、幻想でした。しかも、幻想だったことに妙な納得感が伴います。
この言葉を胸に、いつかは善人にならねばと焦る秋の夜です。