海暮れて
私は平安時代の和歌、とりわけ新古今和歌集が好きなこともあり、永年俳句というものを軽んじていました(ロジック変かな)。和歌は57577、俳句はその前半の575です。俳句はマンボウ(魚ですよ)のように半身なわけで、ぶっきらぼうです。「俳諧連歌の発句」が縮まって「俳句」となったのであり、元は室町時代にはやった連歌の発句だけを独立させたものです。
なんか雑・・・
と昔は思っていました。
でも、江戸時代に芭蕉が出てきて、事態は(私の中では)一変します。(芭蕉より長生きに聞こえますね。)
海暮れて鴨の声ほのかに白し
なんて詠まれると、こりゃもう定家の、
白妙のいろはひとつに身に沁めど雪月花(ゆきつきはな)のをりふしは見つ
に匹敵する絶唱と認めざるを得ません。なお、定家の歌は、「白妙の衣の色(つまりきれいな白)は身に沁みる。でも、おれは人生のいろんなときに雪、月、花の風情を見てきた。」の意味です。年をとり、なんにもない「白」がむしろ身に沁みる。寂しい、もう人生も終わりに近い。でも、思い残すことはない。風情はすべて味わい尽くした、という感じです。(なお、この歌から「雪月花」という言葉が日本語の一部になりました。)
芭蕉の句にはそんな感傷はありません。557という破調の調べの最後、「白し」の「し」の音が、
しーーーーーーーーーー・・・・・・・・
薄暗く滑らかな海面をどこまでも伝わっていきます。その冷たい金属的な永遠性は、定家の乾湿一体の述懐とまったく異質の文学です。
などと、かっこつけて言っておりますが、つまり私は、
俳句も好きになったよー
と言いたいだけなのです。でも、「好きだ」なんて、言葉で言っても信じてもらえません。そこで、四季それぞれに俳句を作ってみました。ふたつずつ載せます。
[春]
春興や巻く前に食う手巻き寿司
「春興」が季語。春ののどかさを楽しむ心とか、うきうきした弾むような気持ちのことです。家で手巻き寿司の準備をしたが、ちゃんと巻く前にどんどん食べてしまう。暖かくなった開放感ですね。瓢味(ひょうみ)の句です。
馬手の傷廃部の夜の春時雨
「春時雨」が季語。馬手(めて)は馬の手綱を引く手(右手)のことです。そこに傷があります。練習に明け暮れていたのでしょう。乗馬部が廃部になる夜、春なのに時雨が降ってきました。季語とそれ以外の部分が「離れすぎず、着きすぎず」を狙っています(俳句はそういうものですが)。
[夏]
来ぬ返事ミントアイスに透かす空
アイスが季語。彼女(彼)から返信がない。青いミントアイスを青い空に透かしてみた。透けるかわからないけど、手持ちぶさただから。切ない気持ちをミントに託してみました。おっさんですが、がんばります。
きみのシャツ水縹色に揺れ晩夏
「みはなだ」色と読みます。「晩夏」が季語。水縹色は少しくすんだ水色。それを見たとき、ああ、夏も終わりだ、と感じます。日本古来の色の表現を探していて、かっこいいのを見つけました。自慢したいだけです。17文字で「晩夏」を定義したつもりです。
[秋]
天高しカノンの楽譜開く朝
「天高し」が季語。正確には「秋高し」の子季語です。パッヘルベルのカノンはシンプルな名曲だから弾きたくなります。秋の澄んだ空気でアートをしたくなる気持ちを詠みました。なお私は、ピアノは弾けませんし、朝は起きません。青臭い句です。
時止めるポンペイの灰長き夜
「長き夜」が季語。イタリアのポンペイは西暦79年ヴェスヴィオ山の大噴火で発生した火砕流により、地中に埋もれました。瞬時だったようで、直前の姿勢のまま人が石化しました。それを「時止める」と。「長き夜」は噴火当日の夜ではなく、2000年を経て痛みを感じるわれわれの夜長としたいです。
[冬]
分かれみち神社へかぶく水仙花
「水仙花」(すいせんか)が季語。見たままの景色です。分かれ道の一方は神社へ、他方は海かどこかへ向いています。そこに咲く水仙の花が神社の方向に傾いています。なんとなく、神社へ行きなさいと言われている気がした、呼ばれているのかな、という句です。
「かぶく」は傾くの意味です。昔、歌舞伎役者は、まあ、まっとうな職業ではない、不良っぽいと思われていました。不良だけどかっこいい。上品なヤンキーというか。なので「かぶいている」と言われたのが歌舞伎の語源です。
雨は夜更けに白く変わるか除夜の鐘
「除夜の鐘」が季語。山下達郎の『クリスマスイブ』に借景した句で、こういう作り方は世界を広げてくれます。「雪に変わるか」としなかったのは、季重なり(季語がふたつ)になるためです。775ですが、俳句は着地で整えば飛型点はもらえます。
読者は『クリスマスイブ』の華やかで西洋的な世界を思いますが、「除夜の鐘」で一転して大晦日の夜の日本的行事へ連れて行かれます。その小さな意外性が狙いです。
とまあ、真剣に遊んでおります。
誰ひとり、仲間はいません。