プライムワークス国際特許事務所 代表森下のブログです。
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セントラルヒーティング

 去年秋、自分の半生を振り返る機会をもちました。今日は昔話です。

 私の父は電器メーカーMを定年まで勤めました。私が小学校4年生のとき、奈良にあった給湯暖房事業部というところで事業部長になりました。部のトップです。部下は5000人もいました。父は若干41歳、当時一番若い事業部長だったそうで、そのあとは取締役になるのが通常のルートでした。

 給湯暖房とは、ボイラー(巨大な湯沸器)でガンガン石油を炊き、常に200リットルぐらいの熱湯を溜めておくシステムです。家の中に細い配管をはり巡らせ、熱湯を通します。冬でも家の中はポカポカになります。電気がなかった時代にヨーロッパで考えられた仕組みで、一箇所でお湯を炊くので、セントラルヒーティングと呼ばれました。いまでも北欧とかロシアの古い家はこの方式です。適度に湿度も保てるし、空気も汚れません。

 当時の日本は、欧米のライフスタイルに憧れがありました。日本の家も全部セントラルヒーティングになると言われ、M社は全世帯をターゲットとする巨大な事業部を作りました。配管を通すから、家の造りから変える話です。まさに社運をかけるプロジェクトを任されたわけです。

 毎朝、センチュリーみたいな大きな黒塗りの車が迎えに来ました。子供ながらも「お父さんは偉いんだ」と感じました。1972年、50年前のこと。沖縄が日本に戻った年です。活気にむせるような時代でした。

 ところが1973年。大事件がありました。年配じゃないと知らないけど、知っている人には一生忘れられない事件です。第四次中東戦争が発生、原油価格は4倍になりました。生産は激減し、世界から石油が消えました。オイルショックです。

 石油はエネルギーだけでなく物資の原料です。大阪で「紙がなくなる」といううわさが広まり、日本中でトイレットペーパー、砂糖、石鹸などの買い占めがおき、大騒動になりました。新型コロナでも2ヶ月ほどトイレットペーパーの買い占めが起きましたが、あんなものではありません。大阪では暴動も発生し、パニックになりました。戦後驚異の成長をつづけた日本も、1974年にはマイナス成長となり、インフレで消費者物価は23%もあがりました。

 当然、私の家もトイレットペーパーはありません。いまみたいにシャワートイレなんてありません。名古屋の祖母の家から、祖母が貯めていた「ちり紙」をもって帰りますが、そんなのはすぐになくなります。

 え、「ちり紙」もわからない?
 ちり紙とは、習字の半紙みたいなもの(←ここまではわかるのかな)。当時も新聞はかろうじて届いたので、母親があまりインクのない白っぽいところを選び、半紙の半分ぐらいに切りそろえてトイレットペーパーの代用にしました。

──どうやって拭くの。

 覚えていません。苦労した記憶はあります。何ヶ月も続きました。活気と裏返しのストレスだらけの時代でした。

 父は憔悴してきました。家の雰囲気も悪くなりました。石油がないのに、石油前提の巨大なボイラーなど、売れるはずがありません。

 M社で過去最大の損失だったと聞きます。1977年組織は解体、住宅設備の別会社ができました。父は閑職へ飛ばされました。5000人いた部下は2名になりました。送り迎えがあった父は毎朝自分で運転して出勤するようになりました。父とはほぼしゃべらなかったから、心中はわかりません。しかし、それが社長候補とまでいわれた男の末路でした。

 私は大学を出て父と同じ会社へ就職しました。家はM社の製品ばかりでした。両親が教会に通っていれば子供も通う。そんな流れでした。
 でも、私はずっと会社を辞める方向に自分をドライブしていたように思います。父の没落は原体験です。1日20時間働き、名古屋、静岡、長野を行き来してクーラーを売っていた父。電子工学を出たのに志願して営業にいき、売りまくりました。3C(クーラー、カラーテレビ、カー)の時代です。
 「故障」と聞けば、テスター、回路図、部品ケース、ハンダごてをもって駆けつけ、その場で複雑な修理をこなしました。そんな営業はいません。ふつうの家なら書棚があるべきところに、うちは部品棚がありました。「トラ技」(トランジスタ技術)という雑誌が二百冊ぐらいあったと思います。父は日曜日も回路図ばかり見ていました。

 会社の運動会へ連れて行かれたとき、父の部下の人たちが私を取り囲み、「鬼軍曹の息子か」と言って笑いました。当時、アメリカの戦争物のドラマがはやっており、鬼軍曹は狂ったように相手を殺しまくる名物キャラクターでした。身を粉にする、とは父のことでした。そこまでして出世街道をトップで上り詰め、勝者のドアを開けたかに思えた瞬間、奈落への崖がありました。

──結局、運じゃないか。

 就職した私は最初から冷めていました。「冷めている」というと、ちょっとかっこよすぎますね。「怖かった」というほうが正しいかもしれません。だからこそ弁理士という資格をとれたと思います。

 父は本社の管理部門で定年を迎えました。私はその頃、本社から1キロのコンピュータの部署にいました。父が定年する月になっても、何も感慨はありませんでした。温かい言葉をかけてもらったことはありません。さりとて、私の自由を縛ったこともありません。いつも「好きにしろ」でした。

 3月末日、定年の日が来ました。私は実験室で試作のコンピュータをいじっていました。午後遅く、なぜか駆り立てられるものが湧いてきました。私は仲間に残務を頼み、本社への構内道路を走りました。まわりはすべてM社の工場で、その中を1キロの直線道路があります。まさにM帝国です。暖かい日で汗だくになりました。

 本社の玄関には数十人の人垣がありました。一番遠くからのぞき込むと、暗い廊下から父が現れました。若い女子社員から大きな花束を受け取り、父は晴れやかな顔をしていました。まわりの人たちが、彼らからすれば「部外者」の私に気づきました。女性社員が「息子さんだ」と気づき(女性はすぐ親子を見抜きます)、私のために人垣に隙間ができました。そんなことしなくていいのに、と思った週間、父と目が合いました。父は一瞬驚き、笑顔になりました。あんなに優しい顔ができるのか。

 父が亡くなってもうすぐ5年です。何も教えてもらわなかったけど、おそらく、「公平」という概念は学びました。「公平」を前提とする父にはまったく私利がありませんでした。亡くなって理解できるものもあります。

 趣味もなく、酒も飲まなかった父です。献杯もできません。趣味は少しぐらいないと、偲びにくいものです。何もしゃべらず、長距離を短距離走のように駆け抜けてしまった、困ったおやじでした。

 

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寅年なのでヒョウを描きました。同じですよね。