辞世の歌作りました
一時期、平安文学、とくに新古今和歌集にはまりました(3年前のブログにちらっと書きました)。後鳥羽院と藤原定家という、タイプ的にはモーツアルト(ひらめきの天才)とベートーベン(彫刻家の深み)のようなふたりを尊敬しています。紫式部はアーサー・ウェイリーの翻訳により、世界に知られるようになりました(拾い読みし、感銘を受けました)。もし新古今も源氏物語のようにいい英訳があれば、後鳥羽院と藤原定家は間違いなく世界トップクラスの作家として知られていたはずです。(とはいえ、和歌の名訳ができるなら、その人がすでに優れた歌人です。)
自分でも和歌を作ったことがあります。
病む雁のわたる空さえ闇なれば我も行くべし薦に時雨れて
「病んでいる雁(かり)もがんばって渡っていく。その空は希望なんかではない、闇だ。それでも行くのか。おれも行こう。粗末な薦被り(こもかぶり)をして、時雨に打たれながら」
武士の辞世の句をまねて作りました。雁は群れで渡り、離脱は死を意味します。空を見ると、病んでいるのか、一羽遅れています。その雁が自分に重なります。「闇」は仏教で言う無明で、「真理の光に照らされていない状態」です。闇を進む雁を見て、無明に苦しむ僧としての自分も死を決意するという意味です。(「時雨」には「死んで暮れる」のニュアンスがあり、「病む」と「闇」は音韻、「空さえ」は「空冴え」と「空もまた」にかけています。)
なーんて✌
死ぬ気もないのにね。旅の僧なんて、いつの時代の人なんだと。(とはいえ、自分の前世のひとつは1160〜1210年の日本にいたらしいので、自分としては違和感なしです。新古今に惹かれるのも前世の影響かもです✌✌)
この歌の元になったのは、山頭火の自由律俳句、
うしろすがたのしぐれてゆくか
および、芭蕉のこれです。
初時雨猿も小蓑(こみの)を欲しげなり
昔、大阪のP社で働いていたとき、京都に近い交野(かたの)という街に住んでいました。交野は新古今でも桜の名所です。よく山を散歩しました。真冬の公園に梅のような花が咲いていました。清楚な白い花で立て札に「冬桜」とありました。そのときに作ったのが、
夕空に咲くや交野の冬桜落ち来る雪のしるべなりけり
冬桜の白い花が、空から落ちてくる白い雪にとって、落ちる場所の目印になる、という歌です。落下傘部隊が地上の目標物を目がける感じですが、いかにも若い頃の「頭でっかち」な歌ですね。土佐日記は見事ながら、歌は「まあまあ」だった紀貫之に通じます。新古今時代なら、「理が勝りたる」(理屈が強すぎる)と言って、歌合せでは負ける歌です。(自分で書いて自分で批評します。批評してくれる仲間は皆無であります。) イメージしたのは、定家の父の藤原俊成の絶唱です。
またや見む交野のみ野の桜狩り花の雪散る春のあけぼの
「みの」は「御野」です。映像が美しすぎます。この一首で、俊成はマスター・ヨーダなのです。
金沢によく行きます。日本一好きな街です。その海を見て創作しました。
加賀の夜の沖の漁り火ゆらめいて夢のうちなるきみをぞ想う
漁り火(いさりび)は、幻想的にチラチラと光ります。夜中です。寝むれないまま遠い漁り火を見ているうちに夢うつつになり、心に懸かる人も夢の中にいる時間だなぁ、と想う歌です。「の」の多用と、「きみをぞ」の「ぞ」でわざと字余りにして気分にしつこさを出すのは新古今的なやり方です。(うーん、どうも自分が変な奴に思えてきた。)
この歌は実感ではなく、与謝野晶子をまねしたものです。たとえばこんな。
海恋し潮の遠鳴りかぞえては少女となりし父母の家
やわ肌のあつき血汐にふれも見でさびしからずや道を説く君
黒体放射のような、暗い熱情ですよね。怖いです。
(゚ロ゚)