プライムワークス国際特許事務所 代表森下のブログです。
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海暮れて

 私は平安時代の和歌、とりわけ新古今和歌集が好きなこともあり、永年俳句というものを軽んじていました(ロジック変かな)。和歌は57577、俳句はその前半の575です。俳句はマンボウ(魚ですよ)のように半身なわけで、ぶっきらぼうです。「俳諧連歌の発句」が縮まって「俳句」となったのであり、元は室町時代にはやった連歌の発句だけを独立させたものです。

 

 なんか雑・・・

 

と昔は思っていました。
 でも、江戸時代に芭蕉が出てきて、事態は(私の中では)一変します。(芭蕉より長生きに聞こえますね。)

 

 海暮れて鴨の声ほのかに白し
 
 なんて詠まれると、こりゃもう定家の、

 

 白妙のいろはひとつに身に沁めど雪月花(ゆきつきはな)のをりふしは見つ

 

 に匹敵する絶唱と認めざるを得ません。なお、定家の歌は、「白妙の衣の色(つまりきれいな白)は身に沁みる。でも、おれは人生のいろんなときに雪、月、花の風情を見てきた。」の意味です。年をとり、なんにもない「白」がむしろ身に沁みる。寂しい、もう人生も終わりに近い。でも、思い残すことはない。風情はすべて味わい尽くした、という感じです。(なお、この歌から「雪月花」という言葉が日本語の一部になりました。)

 芭蕉の句にはそんな感傷はありません。557という破調の調べの最後、「白し」の「し」の音が、

 しーーーーーーーーーー・・・・・・・・

 薄暗く滑らかな海面をどこまでも伝わっていきます。その冷たい金属的な永遠性は、定家の乾湿一体の述懐とまったく異質の文学です。

 などと、かっこつけて言っておりますが、つまり私は、

 俳句も好きになったよー

と言いたいだけなのです。でも、「好きだ」なんて、言葉で言っても信じてもらえません。そこで、四季それぞれに俳句を作ってみました。ふたつずつ載せます。

[春]

 春興や巻く前に食う手巻き寿司 
「春興」が季語。春ののどかさを楽しむ心とか、うきうきした弾むような気持ちのことです。家で手巻き寿司の準備をしたが、ちゃんと巻く前にどんどん食べてしまう。暖かくなった開放感ですね。瓢味(ひょうみ)の句です。

 馬手の傷廃部の夜の春時雨
「春時雨」が季語。馬手(めて)は馬の手綱を引く手(右手)のことです。そこに傷があります。練習に明け暮れていたのでしょう。乗馬部が廃部になる夜、春なのに時雨が降ってきました。季語とそれ以外の部分が「離れすぎず、着きすぎず」を狙っています(俳句はそういうものですが)。

 

[夏]
 来ぬ返事ミントアイスに透かす空
 アイスが季語。彼女(彼)から返信がない。青いミントアイスを青い空に透かしてみた。透けるかわからないけど、手持ちぶさただから。切ない気持ちをミントに託してみました。おっさんですが、がんばります。
 きみのシャツ水縹色に揺れ晩夏 
「みはなだ」色と読みます。「晩夏」が季語。水縹色は少しくすんだ水色。それを見たとき、ああ、夏も終わりだ、と感じます。日本古来の色の表現を探していて、かっこいいのを見つけました。自慢したいだけです。17文字で「晩夏」を定義したつもりです。

 

[秋]
 天高しカノンの楽譜開く朝 
「天高し」が季語。正確には「秋高し」の子季語です。パッヘルベルのカノンはシンプルな名曲だから弾きたくなります。秋の澄んだ空気でアートをしたくなる気持ちを詠みました。なお私は、ピアノは弾けませんし、朝は起きません。青臭い句です。
 時止めるポンペイの灰長き夜
「長き夜」が季語。イタリアのポンペイは西暦79年ヴェスヴィオ山の大噴火で発生した火砕流により、地中に埋もれました。瞬時だったようで、直前の姿勢のまま人が石化しました。それを「時止める」と。「長き夜」は噴火当日の夜ではなく、2000年を経て痛みを感じるわれわれの夜長としたいです。

 

[冬]
 分かれみち神社へかぶく水仙花 
水仙花」(すいせんか)が季語。見たままの景色です。分かれ道の一方は神社へ、他方は海かどこかへ向いています。そこに咲く水仙の花が神社の方向に傾いています。なんとなく、神社へ行きなさいと言われている気がした、呼ばれているのかな、という句です。 
「かぶく」は傾くの意味です。昔、歌舞伎役者は、まあ、まっとうな職業ではない、不良っぽいと思われていました。不良だけどかっこいい。上品なヤンキーというか。なので「かぶいている」と言われたのが歌舞伎の語源です。
 雨は夜更けに白く変わるか除夜の鐘
「除夜の鐘」が季語。山下達郎の『クリスマスイブ』に借景した句で、こういう作り方は世界を広げてくれます。「雪に変わるか」としなかったのは、季重なり(季語がふたつ)になるためです。775ですが、俳句は着地で整えば飛型点はもらえます。

 読者は『クリスマスイブ』の華やかで西洋的な世界を思いますが、「除夜の鐘」で一転して大晦日の夜の日本的行事へ連れて行かれます。その小さな意外性が狙いです。

 

 とまあ、真剣に遊んでおります。
 
 誰ひとり、仲間はいません。

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「大きすぎる花瓶」を描きました。

セントラルヒーティング

 去年秋、自分の半生を振り返る機会をもちました。今日は昔話です。

 私の父は電器メーカーMを定年まで勤めました。私が小学校4年生のとき、奈良にあった給湯暖房事業部というところで事業部長になりました。部のトップです。部下は5000人もいました。父は若干41歳、当時一番若い事業部長だったそうで、そのあとは取締役になるのが通常のルートでした。

 給湯暖房とは、ボイラー(巨大な湯沸器)でガンガン石油を炊き、常に200リットルぐらいの熱湯を溜めておくシステムです。家の中に細い配管をはり巡らせ、熱湯を通します。冬でも家の中はポカポカになります。電気がなかった時代にヨーロッパで考えられた仕組みで、一箇所でお湯を炊くので、セントラルヒーティングと呼ばれました。いまでも北欧とかロシアの古い家はこの方式です。適度に湿度も保てるし、空気も汚れません。

 当時の日本は、欧米のライフスタイルに憧れがありました。日本の家も全部セントラルヒーティングになると言われ、M社は全世帯をターゲットとする巨大な事業部を作りました。配管を通すから、家の造りから変える話です。まさに社運をかけるプロジェクトを任されたわけです。

 毎朝、センチュリーみたいな大きな黒塗りの車が迎えに来ました。子供ながらも「お父さんは偉いんだ」と感じました。1972年、50年前のこと。沖縄が日本に戻った年です。活気にむせるような時代でした。

 ところが1973年。大事件がありました。年配じゃないと知らないけど、知っている人には一生忘れられない事件です。第四次中東戦争が発生、原油価格は4倍になりました。生産は激減し、世界から石油が消えました。オイルショックです。

 石油はエネルギーだけでなく物資の原料です。大阪で「紙がなくなる」といううわさが広まり、日本中でトイレットペーパー、砂糖、石鹸などの買い占めがおき、大騒動になりました。新型コロナでも2ヶ月ほどトイレットペーパーの買い占めが起きましたが、あんなものではありません。大阪では暴動も発生し、パニックになりました。戦後驚異の成長をつづけた日本も、1974年にはマイナス成長となり、インフレで消費者物価は23%もあがりました。

 当然、私の家もトイレットペーパーはありません。いまみたいにシャワートイレなんてありません。名古屋の祖母の家から、祖母が貯めていた「ちり紙」をもって帰りますが、そんなのはすぐになくなります。

 え、「ちり紙」もわからない?
 ちり紙とは、習字の半紙みたいなもの(←ここまではわかるのかな)。当時も新聞はかろうじて届いたので、母親があまりインクのない白っぽいところを選び、半紙の半分ぐらいに切りそろえてトイレットペーパーの代用にしました。

──どうやって拭くの。

 覚えていません。苦労した記憶はあります。何ヶ月も続きました。活気と裏返しのストレスだらけの時代でした。

 父は憔悴してきました。家の雰囲気も悪くなりました。石油がないのに、石油前提の巨大なボイラーなど、売れるはずがありません。

 M社で過去最大の損失だったと聞きます。1977年組織は解体、住宅設備の別会社ができました。父は閑職へ飛ばされました。5000人いた部下は2名になりました。送り迎えがあった父は毎朝自分で運転して出勤するようになりました。父とはほぼしゃべらなかったから、心中はわかりません。しかし、それが社長候補とまでいわれた男の末路でした。

 私は大学を出て父と同じ会社へ就職しました。家はM社の製品ばかりでした。両親が教会に通っていれば子供も通う。そんな流れでした。
 でも、私はずっと会社を辞める方向に自分をドライブしていたように思います。父の没落は原体験です。1日20時間働き、名古屋、静岡、長野を行き来してクーラーを売っていた父。電子工学を出たのに志願して営業にいき、売りまくりました。3C(クーラー、カラーテレビ、カー)の時代です。
 「故障」と聞けば、テスター、回路図、部品ケース、ハンダごてをもって駆けつけ、その場で複雑な修理をこなしました。そんな営業はいません。ふつうの家なら書棚があるべきところに、うちは部品棚がありました。「トラ技」(トランジスタ技術)という雑誌が二百冊ぐらいあったと思います。父は日曜日も回路図ばかり見ていました。

 会社の運動会へ連れて行かれたとき、父の部下の人たちが私を取り囲み、「鬼軍曹の息子か」と言って笑いました。当時、アメリカの戦争物のドラマがはやっており、鬼軍曹は狂ったように相手を殺しまくる名物キャラクターでした。身を粉にする、とは父のことでした。そこまでして出世街道をトップで上り詰め、勝者のドアを開けたかに思えた瞬間、奈落への崖がありました。

──結局、運じゃないか。

 就職した私は最初から冷めていました。「冷めている」というと、ちょっとかっこよすぎますね。「怖かった」というほうが正しいかもしれません。だからこそ弁理士という資格をとれたと思います。

 父は本社の管理部門で定年を迎えました。私はその頃、本社から1キロのコンピュータの部署にいました。父が定年する月になっても、何も感慨はありませんでした。温かい言葉をかけてもらったことはありません。さりとて、私の自由を縛ったこともありません。いつも「好きにしろ」でした。

 3月末日、定年の日が来ました。私は実験室で試作のコンピュータをいじっていました。午後遅く、なぜか駆り立てられるものが湧いてきました。私は仲間に残務を頼み、本社への構内道路を走りました。まわりはすべてM社の工場で、その中を1キロの直線道路があります。まさにM帝国です。暖かい日で汗だくになりました。

 本社の玄関には数十人の人垣がありました。一番遠くからのぞき込むと、暗い廊下から父が現れました。若い女子社員から大きな花束を受け取り、父は晴れやかな顔をしていました。まわりの人たちが、彼らからすれば「部外者」の私に気づきました。女性社員が「息子さんだ」と気づき(女性はすぐ親子を見抜きます)、私のために人垣に隙間ができました。そんなことしなくていいのに、と思った週間、父と目が合いました。父は一瞬驚き、笑顔になりました。あんなに優しい顔ができるのか。

 父が亡くなってもうすぐ5年です。何も教えてもらわなかったけど、おそらく、「公平」という概念は学びました。「公平」を前提とする父にはまったく私利がありませんでした。亡くなって理解できるものもあります。

 趣味もなく、酒も飲まなかった父です。献杯もできません。趣味は少しぐらいないと、偲びにくいものです。何もしゃべらず、長距離を短距離走のように駆け抜けてしまった、困ったおやじでした。

 

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寅年なのでヒョウを描きました。同じですよね。

 

辞世の歌作りました

 一時期、平安文学、とくに新古今和歌集にはまりました(3年前のブログにちらっと書きました)。後鳥羽院藤原定家という、タイプ的にはモーツアルト(ひらめきの天才)とベートーベン(彫刻家の深み)のようなふたりを尊敬しています。紫式部はアーサー・ウェイリーの翻訳により、世界に知られるようになりました(拾い読みし、感銘を受けました)。もし新古今も源氏物語のようにいい英訳があれば、後鳥羽院藤原定家は間違いなく世界トップクラスの作家として知られていたはずです。(とはいえ、和歌の名訳ができるなら、その人がすでに優れた歌人です。)

 

 自分でも和歌を作ったことがあります。

 

 病む雁のわたる空さえ闇なれば我も行くべし薦に時雨れて

 

「病んでいる雁(かり)もがんばって渡っていく。その空は希望なんかではない、闇だ。それでも行くのか。おれも行こう。粗末な薦被り(こもかぶり)をして、時雨に打たれながら」

 

 武士の辞世の句をまねて作りました。雁は群れで渡り、離脱は死を意味します。空を見ると、病んでいるのか、一羽遅れています。その雁が自分に重なります。「闇」は仏教で言う無明で、「真理の光に照らされていない状態」です。闇を進む雁を見て、無明に苦しむ僧としての自分も死を決意するという意味です。(「時雨」には「死んで暮れる」のニュアンスがあり、「病む」と「闇」は音韻、「空さえ」は「空冴え」と「空もまた」にかけています。)

 

 なーんて✌

 

 死ぬ気もないのにね。旅の僧なんて、いつの時代の人なんだと。(とはいえ、自分の前世のひとつは1160〜1210年の日本にいたらしいので、自分としては違和感なしです。新古今に惹かれるのも前世の影響かもです✌✌)

 

 この歌の元になったのは、山頭火の自由律俳句、

 

 うしろすがたのしぐれてゆくか

 

 および、芭蕉のこれです。

 

 初時雨猿も小蓑(こみの)を欲しげなり

 

 昔、大阪のP社で働いていたとき、京都に近い交野(かたの)という街に住んでいました。交野は新古今でも桜の名所です。よく山を散歩しました。真冬の公園に梅のような花が咲いていました。清楚な白い花で立て札に「冬桜」とありました。そのときに作ったのが、

 

 夕空に咲くや交野の冬桜落ち来る雪のしるべなりけり 

 

 冬桜の白い花が、空から落ちてくる白い雪にとって、落ちる場所の目印になる、という歌です。落下傘部隊が地上の目標物を目がける感じですが、いかにも若い頃の「頭でっかち」な歌ですね。土佐日記は見事ながら、歌は「まあまあ」だった紀貫之に通じます。新古今時代なら、「理が勝りたる」(理屈が強すぎる)と言って、歌合せでは負ける歌です。(自分で書いて自分で批評します。批評してくれる仲間は皆無であります。) イメージしたのは、定家の父の藤原俊成絶唱です。

 

 またや見む交野のみ野の桜狩り花の雪散る春のあけぼの

 

 「みの」は「御野」です。映像が美しすぎます。この一首で、俊成はマスター・ヨーダなのです。

 

 金沢によく行きます。日本一好きな街です。その海を見て創作しました。

 

 加賀の夜の沖の漁り火ゆらめいて夢のうちなるきみをぞ想う 

 

 漁り火(いさりび)は、幻想的にチラチラと光ります。夜中です。寝むれないまま遠い漁り火を見ているうちに夢うつつになり、心に懸かる人も夢の中にいる時間だなぁ、と想う歌です。「の」の多用と、「きみをぞ」の「ぞ」でわざと字余りにして気分にしつこさを出すのは新古今的なやり方です。(うーん、どうも自分が変な奴に思えてきた。)

 この歌は実感ではなく、与謝野晶子をまねしたものです。たとえばこんな。

 

 海恋し潮の遠鳴りかぞえては少女となりし父母の家

 やわ肌のあつき血汐にふれも見でさびしからずや道を説く君 

 

 黒体放射のような、暗い熱情ですよね。怖いです。

 

 (゚ロ゚)

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カブトムシの夢という絵を描きました。

 

子規の画

 1年ぶりのブログです。疫病の時世に私の文体は合わないと自重していました。

 それでもまた春は来ます。この時期、大学の入試問題が公表されます。私はいつも問題を覗いてみます。いまでも数学は半分ぐらい解きたいと思うし、国語は若い頃よりわかるはずと思って。

 国語。東大には夏目漱石、京大は石川淳の随筆がありました。いずれもわが尊崇の人ですが、今日は前者。

 

 漱石正岡子規を偲ぶ文でした。子規は夭逝し、でも25000句を残しました。漱石は、子規が病床で菊の絵を描き、自分に贈った話をします。ただその絵は、べったりと色を塗り込んで愚直そのもの。子規もわかっていて、「下手なのは床に伏して描いたから」と言い訳します。漱石は「文芸では自在な男のこの稚拙に失笑」と言っています。

 子規は情熱で俳句界を改革した人です。真っ直ぐなんですね。一方、漱石は遊び心満載の俳句を多く残しました。たとえば、

 

 叩かれて昼の蚊を吐く木魚かな

 

なんて、私は大好きです。芭蕉諧謔(かいぎゃく=ユーモア)を旨としたとおり、漱石は実に軽やかに遊んでいます。湯上がりタオル片手にいい音の下駄で歩くような。

 そんな漱石からみれば、子規の絵は「失笑」なんですね。小説家漱石には俳句は遊び、歌人子規には絵は遊びのはず。なのに、遊べない彼を見て。

 子規の名誉のために言うと、彼は野球が好きで、なんと『野球』『投手』なんて彼がつけたんですよ。最初は英語しかなかったので。文芸(文の芸です)ならいい感じに遊べたんです。

 

 漱石逸文の最後です。

 

 子規は人間として、また文学者として、最も「拙」の欠乏した男であった。永年彼と交際をしたどの月にも、どの日にも、余はいまだかつて彼の拙を笑い得るの機会を捉とらえ得た試しがない。また彼の拙に惚れ込んだ瞬間の場合さえもたなかった。彼の歿後ほとんど十年になろうとする今日、彼のわざわざ余のために描いた一輪の東菊の中に、確かにこの一拙字を認める事のできたのは、その結果が余をして失笑せしむると、感服せしむるとに論なく、余にとっては多大の興味がある。ただ画がいかにも淋しい。でき得るならば、子規にこの拙な所をもう少し雄大に発揮させて、淋しさの償いとしたかった。

 

 漱石の『子規の画』という随筆で、筑摩書店だと思います。私はこれを25年ほど前に読みました。そのときは名文とは感じました。再読、漱石の計り知れない寂しさに茫然とするばかりです。

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ジャングルに生きるヤマネコが好きで、iPadで描きました。

 

キモイ関係性

 10年ぐらい気になっている言葉があります。10年もたってはじめて話すなんて、このペースではあと2つか3つしか話せません。

 

 「アメリカの大統領選挙と日本の景気の関係性は大きく・・・」

 

なんていわれると、からだ中がかゆくなります。

 

 「私と彼の関係性がおかしいのです」

 

に至るや、もはや子守ガエルピパピパの背中なみにキモイです。(ピパピパ、閲覧注意ですよ。ピパピパに罪はありません。

 

 いつからでしょう。「関係」といえばよいのに、「関係性」なんてヘンテコな日本語がはやりだしたのは。「性」がつくと高級だと思うのかな。

 

 さて、ではなぜヘンなのか。文句だけでなく、理由を考えるところが学究的なのです。まず、「性」のつくことばを挙げてみます。

 

  危険性 信頼性 可能性 永続性 違法性 具体性……

 

 これらに共通するのは、

 ①「高い」「低い」「大きい」「小さい」

 ②「ある」「ない」

のいずれかのパターンの言葉を付けることができる点です。①はたとえば、「このソフトは信頼性が高い」、②は「この事業には永続性がある」など。①は「程度」ということ、②は「性質」ということです。「人間性」という言葉にしても、「人間が本来備えるべき性質」でしょうから②です。「人間性が高い」という文章を書く作家もいるので、その場合は、①かつ②と見ているわけです。(もっというと、私は②だけでも十分かな、と思っています。)

 

 この原則に当てはめてみると、「関係性」は「関係の程度」または「関係の性質」ということになりますが、よーく考えて下さい。関係というのは、あるかないかしかないんです。トランプに表と裏しかないのと同じです(ヘンかな)。

 

 例えば、「親子関係」に「程度」や「性質」ってありませよね。関わりが薄くても親子は親子で、親子関係は「ある」か「ない」しかありません。

 

 「関係」とは、そういう真っ直ぐな言葉です。なのにこれに「性」を付けてその鋭さを削ぐ行為は、フカヒレのために鰭が切られた鮫のように、無残ではないですか。(言い過ぎ?)

 

 一時期、「ら抜き言葉」が話題になりました。こういう会話です。

 

 祖母「ちゃんとごはんは食べられたのかい?」

 孫 「うん、食べれたよ」

 

 「られる」が可能の助動詞ですから、祖母は正しく、孫は「食べ(ら)れた」の「ら抜き」となり、間違いとされます。

 

 私は言葉にうるさいオヤジですが、結論から言うと、ら抜き言葉は、「ぜひ主流になってしまえばよい」と思っています。どーですか。祖母より孫に近いんですよ。

 

 大昔、どなたかのエッセイで、「ら抜き言葉は中世(だったか江戸だったか)からあった」と書いてあり、驚きました。最近の傾向と思われがちですが、数百年あるんです。

 

 実は「られる」の助動詞は「可能」のほかに「受け身」「尊敬」「自発」があります。それぞれ「ライオンに食べられる」「先生が来られる」「愛が感じられる」みたいに。つまり、役割満載すぎるのです。(「取締役開発本部長兼研究部長兼企画部長」みたいな。かわいそうだよ。) これらの中で「ら抜き」にできるのは、「可能」だけです。「ライオンに食べれる」とは言わないでしょう。

 

 つまり、「ら抜き」にすることで、積載量オーバーの「られる」から「可能」を外すことができるのです。機能的ですよね。「ら抜き」にするのは、それで通じるという正しい言語感覚があるからで、単純に否定すべきではないと思います。

 

 などといいなから、年齢は明らかに孫より祖母に近い私は、今日も家で映画が見られて、ぐっすり寝られて、幸せなのでした。

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夕方の砂丘が描きたかったが、ラクダメインになりました。

 

台風を曲げる

 

 香港が中国へ返還されるとき、「一国二体制」という言葉が発明されました。当時それを聞いた人々(私も含む)は、

 ・・・?

 今回の衝突は、むしろよくここまで起きなかったな、というのが本音です。このまま起きないでほしかったと思います。対岸の火事みたいな言い方しかできず、もどかしいですが。

 政治ではなく、経済の話を少し。

 香港は世界の金融の中心のひとつですが、一国二体制の不安はありました。返還当時私は「香港に代わり、沖縄が金融基地になれないかなぁ」と思いました。沖縄は国家の体制に不安はなく、香港にはないトロピカルビーチがあり、議論はともかく、米軍に守られています。西側社会からすれば、ひとつの理想の地ではないでしょうか。

 もちろん、台風は沖縄の弱点です。しかし、大国が秘密裡に開発した技術を使えば、天候も変えられるでしょう。1977年に「環境改変兵器禁止条約」というのが成立しています。  

 この条約で環境改変技術とは、自然の作用を意図的に操作することにより地球(生物相、岩石圏、水圏及び気圏を含む。)又は宇宙空間の構造、組成又は運動に変更を加える技術をいう(第2条)

 となっています。「気圏」があるから台風の進路は曲げられるし、「岩石圏」があるから地震も起こせるということです(気になる人は、謎の米軍施設「HAARP」というのを調べてみてください😊)。

  この条約が必要になったのは、そういう技術があったからです。1977年はピンクレディーが『渚のシンドバッド』を歌った年です。そのときすでに環境改変技術があり、それから40年以上経っています。水面下の技術でも格段の進歩があるはずですよね。この条約、日本も1982年に批准していますよ。なお、兵器利用はダメでも平和利用はいいんです。

 あれ、それました。経済です。

 香港返還の頃から、日本全体が「沖縄こそ金融の中心に」という思いで動いていれば、いまどうなっていたのか。「惜しいなぁ」「いまからでも遅くない」と思うのは、私だけでしょうか。

 沖縄の選挙はいつも基地の話です。違う視点で「沖縄を世界唯一の場所に育てる」と具体的に企画する人は出てこないのでしょうか。 建て直す首里城を平和で豊かな『新しい地球の原点』と謳って。日本の役目じゃないですか。

 雑感です。浅見はご容赦を。趣旨でご理解ください。香港を気にしつつ、沖縄がよくなってほしいと思うまでです。

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遠くに、燃えてしまった首里城。地球もいちど壊して再建が必要か。

われ思う、ゆえに何者にもあらず。

 経営者が「尊敬する人」として挙げる名前の多くは、われわれもよく知っています。たとえば、盛田昭夫さん、本田宗一郎さんなど。

 「二宮尊徳」(二宮金次郎)を挙げる人もいます。薪を背負って歩きながら本を読む銅像は、むかし校庭でよく見たものです。(基本は銅像ですが、戦時中「金属は拠出せよ」とのお達しにより、石川県では九谷焼の像に替わったところもあるとか。それはそれで、見てみたいですが。)

 しかし、この金次郎さん、どうも道徳臭くて苦手意識がありました。

 「本を読みながら歩くって、歩きスマホじゃないか」

  なんて、私は1秒も思ったことはありませんが、松下幸之助さんも「二宮尊徳から経営を学んだ」と言われていたと知り、弟子が書き留めた金次郎さんの教えを読んでみました。

 読んで、いままで敬遠していたことを反省しました。ロジカルだけどハートがあり、知情意の備わった人です。

 「じゃあ、学んだことを言って見ろ」

と言われると、実は3か月でほぼ忘れました。記憶力のせいですが、もっと大きな理由は、あるひとつの教えが衝撃的すぎて、ほかのすべてを吹き飛ばしてしまったからです。こんな感じです。

 

 悪事を思いついても、やらなければ悪人ではない。それと同じく、善事を思いついても、やらなければ善人ではない。

 

 まじか。

 私はまったく善人ではありません。いままで自分は勝手に善人のはしくれと思ってきましたが、幻想でした。しかも、幻想だったことに妙な納得感が伴います。

 この言葉を胸に、いつかは善人にならねばと焦る秋の夜です。

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iPadで「フウセンウオ」を描きました。この魚、はまります。2センチほどしかありません。いろんな色がいます。