プライムワークス国際特許事務所 代表森下のブログです。
公式サイトはこちら
プライムワークス国際特許事務所 www.primeworks-ip.com

ベネチアのエビ

「世界中で、どの街が好きか」

 最近聞かれました。いままで33カ国を旅しました。といっても、アクセスしやすいところばかりです。世界の1%も見ていません。

 

 その1%の中ではありますが・・・、

 ベネチアプラハは別格です。今日は前者の話。

 もう5回行っています。最初は大学の卒業旅行。夜行列車を下りると、いきなりエメラルドグリーンの運河が目に飛び込み、寝ぼけた頭がくらくらしました。一泊2000円の宿に荷物を置き、街に出ます。

「エビ、900エン、900エン!」

 レストランの前でおじさんが巨大なイセエビを天に突き上げています。

「これ、900円? まじか・・・」

 直前にいたウィーンはマイナス23度。凍り付いた心身に「ぽっ」。灯がともります。おじさんについてレストランの中へ。

 

──本当にあんな大きいのが出てくるかな。

 

 出てきましたよ。おじさんがもっていたのより、さらに大きいエビが。

 しびれます。

 

 で、お会計。エビとビールとパン。まあ、1500円ですよね。

 当時、イタリアはリラです。桁が多い。円に換算し、凍りました。

 

・・・に、二万円!?

 

 貧乏バックパッカーの焦りは、四半世紀を経てなお、メガピクセル級に鮮明です。

「おっさん、900円いうたやないか!」

 大阪弁で文句を言うと、大阪弁はイタリア語に近いので通じます。

「900円だよ、100グラム」

 

 って、吉本新喜劇かい。

 いまでもムカつきます。とはいえ、博愛の私は、疑わない自分にむかついているだけで、誰も責めませんよ。

 

 今日は絵を載せます。10年前かなぁ、ベネチアで描きました(私が、ですよ(^^) )。

 久しぶりに行きたくなりました。

f:id:pwblog:20180419064547j:plain

考える水

 大昔(30年前?)、ニュースで静岡(だったかな)のイチゴ農家が、「モーツァルトを聴かせるとイチゴが甘くなる」といって、ビニールハウスの中に音楽を流していました。

 当時は、「バカな」と思いましたが、最近、かなり考え方が変わりました。ここから、ロジカルですよ。

 

 ・人の体は大半が水でできている。

 ・イチゴもそう。

 ・人はモーツァルトを聴くと気持ちよい。

 ・なら、イチゴも気持ちよい。

 

 どうです。さすが、情報系弁理士ですよね。

 

 人の体の大半が水なら、モーツァルトが気持ちよいのは、人の中の水が気持ちよいと感じている可能性があります。ロジカルでしょ。

  電子レンジは、食品の中の水に特定の周波数が作用し、食品の「温度」を変化させています。モーツァルトの曲も特定の周波数の集合なわけで、それを浴びた物(人、イチゴ)の中の「快感」を変化させている。可能性、ゼロでしょうか。

 

 なによりも確かなのは、イチゴ農家の方々が「甘くなる」と言われることです。プロが言うので、私は信用します。ちなみに、いまでも「イチゴ モーツァルト」で検索すると、ちゃんと出てきます。

 

 指揮者は長生きな方が多いですよね。ひとつの傍証ではないでしょうか(^^)

 

 昔の偉人は「人間は考える葦である」と言われました。私は、

  ──人間は考える水である

 と、今日もまた、アルコールにかたよったカラダを水に戻しています。

嵐も白き

 桜はもう終わりですね。

 

 み吉野の高嶺の桜散りにけり嵐も白き春のあけぼの

 

 ──吉野山の高嶺の桜はすっかり散ったのだろう。春の夜明け前、山風が真っ白なのだから。

 

 新古今集にある後鳥羽院の絶唱です。目の前の白い嵐(=山風)から、吉野山の落花を想像しているのです。夜明け前の夢現(ゆめうつつ)の目には、この白い嵐が本物なのか心象なのか、区別がつきません。花の嵐には音もありません。

 後鳥羽院承久の乱で破れ、隠岐に流されました。「無音の白い嵐」は静かに乱を企てる院の姿なのです。やばい歌ですよ。

 

 え、古典の話、突然すぎますか?

 

 実は、私の中で新古今集源氏物語は日本語の文学の最高峰なのです。新古今の歌人では後鳥羽院藤原定家が双璧であり、このふたりに紫式部を加えた三人が私にとって日本語文学最高のアーティストなのです。

 

 明治通り沿い、恵比寿から広尾にかけて、見事な桜並木ですね。それが今朝、白い嵐でした。私の思いは一気に中世へ飛びました。

 

 私はよく、「人の話を聞いていない」と怒られますが、1000年も違うところへ行っているので、仕方ありません (^^)

 

満開にふたつの別れ

 今日からブログを始めます。おつきあいください。

 東京は桜が満開です。いつもこの時期、記憶は大昔に飛びます。

 私もかつて18歳でした。

 早稲田の政経に入りました。一般教養に「相対性理論」があり、かっこいいので、とりました。超常現象の否定で有名な大槻先生の若き日の講義です。

 ところがこの先生、芸能ネタばかり話され、半年たっても「相対性理論」を語られません。学生はだんだん心配になります。空気は伝わります。先生はこう言い放たれました。

 ── 文化系の生徒にそんな難しいもの、わかるはずないでしょ。

 ── 大学というのは、自然科学を学ぶところなのです。なぜ早稲田にくる学力があるのに、そんな簡単なことがわからないのか。

 空気が凍る音が聞こえそうでした。大教室全員を敵に回されました。否、ひとりだけ、

 ── そうかもしれん・・・。

 私はなぜか感動を覚え、発憤しました。翌年、関西の大学の理学部へ入りました。それがいま弁理士という仕事につながっていると思うと、大槻先生のお陰なんですね。先生はご存じありませんが。

 3月の終わり、早稲田へ退学届を出しに行きました。桜は満開、大学では卒業式が終わったところで、明日から散っていく仲間たちの歓声が花の裏から聞こえてきます。

 この人たちは喜びの中でこの大学に別れる。おれはどうなのか。

 ふたつの別れは、だいぶ違います。うしろめたい思いで大学をあとにしました。

 しかし、いまでも早稲田時代の仲間たちは仲良くしてくれます。彼らの心の広さも、この時期に思う事柄のひとつです。

 明日、目黒川の桜を見てきます。