プライムワークス国際特許事務所 代表森下のブログです。
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キモイ関係性

 10年ぐらい気になっている言葉があります。10年もたってはじめて話すなんて、このペースではあと2つか3つしか話せません。

 

 「アメリカの大統領選挙と日本の景気の関係性は大きく・・・」

 

なんていわれると、からだ中がかゆくなります。

 

 「私と彼の関係性がおかしいのです」

 

に至るや、もはや子守ガエルピパピパの背中なみにキモイです。(ピパピパ、閲覧注意ですよ。ピパピパに罪はありません。

 

 いつからでしょう。「関係」といえばよいのに、「関係性」なんてヘンテコな日本語がはやりだしたのは。「性」がつくと高級だと思うのかな。

 

 さて、ではなぜヘンなのか。文句だけでなく、理由を考えるところが学究的なのです。まず、「性」のつくことばを挙げてみます。

 

  危険性 信頼性 可能性 永続性 違法性 具体性……

 

 これらに共通するのは、

 ①「高い」「低い」「大きい」「小さい」

 ②「ある」「ない」

のいずれかのパターンの言葉を付けることができる点です。①はたとえば、「このソフトは信頼性が高い」、②は「この事業には永続性がある」など。①は「程度」ということ、②は「性質」ということです。「人間性」という言葉にしても、「人間が本来備えるべき性質」でしょうから②です。「人間性が高い」という文章を書く作家もいるので、その場合は、①かつ②と見ているわけです。(もっというと、私は②だけでも十分かな、と思っています。)

 

 この原則に当てはめてみると、「関係性」は「関係の程度」または「関係の性質」ということになりますが、よーく考えて下さい。関係というのは、あるかないかしかないんです。トランプに表と裏しかないのと同じです(ヘンかな)。

 

 例えば、「親子関係」に「程度」や「性質」ってありませよね。関わりが薄くても親子は親子で、親子関係は「ある」か「ない」しかありません。

 

 「関係」とは、そういう真っ直ぐな言葉です。なのにこれに「性」を付けてその鋭さを削ぐ行為は、フカヒレのために鰭が切られた鮫のように、無残ではないですか。(言い過ぎ?)

 

 一時期、「ら抜き言葉」が話題になりました。こういう会話です。

 

 祖母「ちゃんとごはんは食べられたのかい?」

 孫 「うん、食べれたよ」

 

 「られる」が可能の助動詞ですから、祖母は正しく、孫は「食べ(ら)れた」の「ら抜き」となり、間違いとされます。

 

 私は言葉にうるさいオヤジですが、結論から言うと、ら抜き言葉は、「ぜひ主流になってしまえばよい」と思っています。どーですか。祖母より孫に近いんですよ。

 

 大昔、どなたかのエッセイで、「ら抜き言葉は中世(だったか江戸だったか)からあった」と書いてあり、驚きました。最近の傾向と思われがちですが、数百年あるんです。

 

 実は「られる」の助動詞は「可能」のほかに「受け身」「尊敬」「自発」があります。それぞれ「ライオンに食べられる」「先生が来られる」「愛が感じられる」みたいに。つまり、役割満載すぎるのです。(「取締役開発本部長兼研究部長兼企画部長」みたいな。かわいそうだよ。) これらの中で「ら抜き」にできるのは、「可能」だけです。「ライオンに食べれる」とは言わないでしょう。

 

 つまり、「ら抜き」にすることで、積載量オーバーの「られる」から「可能」を外すことができるのです。機能的ですよね。「ら抜き」にするのは、それで通じるという正しい言語感覚があるからで、単純に否定すべきではないと思います。

 

 などといいなから、年齢は明らかに孫より祖母に近い私は、今日も家で映画が見られて、ぐっすり寝られて、幸せなのでした。

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夕方の砂丘が描きたかったが、ラクダメインになりました。