『おれは犬だな』
私は言語とか言葉が好きです。今日は日本語の主語について雑感を。以下、大昔本から得た知識や自分の感覚が混じっていて、全然厳密ではないですよ。
日本語は主語がなくてもよいぐらい曖昧な言語だ、英語は逆にすごく論理的だ(ヘタすると高級だ)と思っている人がいます。この思い込みで、とくに戦後、日本人は無駄に軽い劣等感をもってきた気がします。
言語ができた歴史が違うだけです。日本は島国でほぼ単一民族でした。文化や育った環境が同じだと、話はニュアンスで伝わります。一方、英語は民族が接する世界で生まれてきた言語です。「どこの誰か」を名乗らないと通じません。肯定か否定かを主語のすぐ次に明示するのも、「さっさと白か黒か言ってくれ。じゃなきゃわからん」からです。
日本語では肯定か否定かは文末で示します。そこに辿り着く前に、会話のニュアンスでどちらかわかることも多いため、わざわざ最初にイエス、ノーを言って相手の感情をさかなでしなくても、という深慮の結果です(言い過ぎかな)。
つまり、「日本語は主語がなくてもよい」ではなく、「主語を明示しなくてもわかるときは省ける」というのが正しいでしょう。弁理士になりたての頃、開高健さんの『夜と陽炎─耳の物語』を読みました。一人称をいちども使わずに書かれた小説です。濁った水中から遠い太陽の光を見るような、不思議な名作でした。
格調が高いですねぇ。息切れしたので、最近の会話から。
「犬とネコ、どっちが好きですか」
「おれは犬だな」
これ、Google翻訳に入れると、こうなります。(やってみましたよ。)
Which do you like, dogs and cats?
I am a dog.
I am a dog. ですよ。「おれは犬だな」という文章は、英語的発想だと、「おれ」が主語になり、それ以外考えられません。しかし日本語には、実は英語にはない「提示語」という概念があります。ここでは「おれは」が提示語で、「おれか。おれなら、犬だなぁ」というニュアンスです。もし訳すなら、
As for me, I choose dogs.
「提示語」とは、主語ではなく、話題の対象を示す言葉で、日本語の便利な機能です。「春はあけぼの」にしても、春=あけぼの、ではありません。「春について言うなら、あけぼのがよいですよね」という、控えめに、しかしはっきりと自分の意見を言う高度な話術を「は」一文字でやっているのです。
ちなみに、「提示語」という概念を提唱した先生は、「何食べたい」「おれはウナギだ」を例にしたため、学者の間では、提示語の文章を「ウナギ文」と呼んでいたそうです。なかなかシャレのわかる人たちですね。うれしくなります(^_^)v
※私は、本当はネコのほうが好きですが、「おれはネコだな」は……。
ベネチアのエビ
「世界中で、どの街が好きか」
最近聞かれました。いままで33カ国を旅しました。といっても、アクセスしやすいところばかりです。世界の1%も見ていません。
その1%の中ではありますが・・・、
もう5回行っています。最初は大学の卒業旅行。夜行列車を下りると、いきなりエメラルドグリーンの運河が目に飛び込み、寝ぼけた頭がくらくらしました。一泊2000円の宿に荷物を置き、街に出ます。
「エビ、900エン、900エン!」
レストランの前でおじさんが巨大なイセエビを天に突き上げています。
「これ、900円? まじか・・・」
直前にいたウィーンはマイナス23度。凍り付いた心身に「ぽっ」。灯がともります。おじさんについてレストランの中へ。
──本当にあんな大きいのが出てくるかな。
出てきましたよ。おじさんがもっていたのより、さらに大きいエビが。
しびれます。
で、お会計。エビとビールとパン。まあ、1500円ですよね。
当時、イタリアはリラです。桁が多い。円に換算し、凍りました。
・・・に、二万円!?
貧乏バックパッカーの焦りは、四半世紀を経てなお、メガピクセル級に鮮明です。
「おっさん、900円いうたやないか!」
大阪弁で文句を言うと、大阪弁はイタリア語に近いので通じます。
「900円だよ、100グラム」
って、吉本新喜劇かい。
いまでもムカつきます。とはいえ、博愛の私は、疑わない自分にむかついているだけで、誰も責めませんよ。
今日は絵を載せます。10年前かなぁ、ベネチアで描きました(私が、ですよ(^^) )。
久しぶりに行きたくなりました。
考える水
大昔(30年前?)、ニュースで静岡(だったかな)のイチゴ農家が、「モーツァルトを聴かせるとイチゴが甘くなる」といって、ビニールハウスの中に音楽を流していました。
当時は、「バカな」と思いましたが、最近、かなり考え方が変わりました。ここから、ロジカルですよ。
・人の体は大半が水でできている。
・イチゴもそう。
・人はモーツァルトを聴くと気持ちよい。
・なら、イチゴも気持ちよい。
どうです。さすが、情報系弁理士ですよね。
人の体の大半が水なら、モーツァルトが気持ちよいのは、人の中の水が気持ちよいと感じている可能性があります。ロジカルでしょ。
電子レンジは、食品の中の水に特定の周波数が作用し、食品の「温度」を変化させています。モーツァルトの曲も特定の周波数の集合なわけで、それを浴びた物(人、イチゴ)の中の「快感」を変化させている。可能性、ゼロでしょうか。
なによりも確かなのは、イチゴ農家の方々が「甘くなる」と言われることです。プロが言うので、私は信用します。ちなみに、いまでも「イチゴ モーツァルト」で検索すると、ちゃんと出てきます。
指揮者は長生きな方が多いですよね。ひとつの傍証ではないでしょうか(^^)
昔の偉人は「人間は考える葦である」と言われました。私は、
──人間は考える水である
と、今日もまた、アルコールにかたよったカラダを水に戻しています。
嵐も白き
桜はもう終わりですね。
み吉野の高嶺の桜散りにけり嵐も白き春のあけぼの
──吉野山の高嶺の桜はすっかり散ったのだろう。春の夜明け前、山風が真っ白なのだから。
新古今集にある後鳥羽院の絶唱です。目の前の白い嵐(=山風)から、吉野山の落花を想像しているのです。夜明け前の夢現(ゆめうつつ)の目には、この白い嵐が本物なのか心象なのか、区別がつきません。花の嵐には音もありません。
後鳥羽院は承久の乱で破れ、隠岐に流されました。「無音の白い嵐」は静かに乱を企てる院の姿なのです。やばい歌ですよ。
え、古典の話、突然すぎますか?
実は、私の中で新古今集と源氏物語は日本語の文学の最高峰なのです。新古今の歌人では後鳥羽院と藤原定家が双璧であり、このふたりに紫式部を加えた三人が私にとって日本語文学最高のアーティストなのです。
明治通り沿い、恵比寿から広尾にかけて、見事な桜並木ですね。それが今朝、白い嵐でした。私の思いは一気に中世へ飛びました。
私はよく、「人の話を聞いていない」と怒られますが、1000年も違うところへ行っているので、仕方ありません (^^)
満開にふたつの別れ
今日からブログを始めます。おつきあいください。
東京は桜が満開です。いつもこの時期、記憶は大昔に飛びます。
私もかつて18歳でした。
早稲田の政経に入りました。一般教養に「相対性理論」があり、かっこいいので、とりました。超常現象の否定で有名な大槻先生の若き日の講義です。
ところがこの先生、芸能ネタばかり話され、半年たっても「相対性理論」を語られません。学生はだんだん心配になります。空気は伝わります。先生はこう言い放たれました。
── 文化系の生徒にそんな難しいもの、わかるはずないでしょ。
── 大学というのは、自然科学を学ぶところなのです。なぜ早稲田にくる学力があるのに、そんな簡単なことがわからないのか。
空気が凍る音が聞こえそうでした。大教室全員を敵に回されました。否、ひとりだけ、
── そうかもしれん・・・。
私はなぜか感動を覚え、発憤しました。翌年、関西の大学の理学部へ入りました。それがいま弁理士という仕事につながっていると思うと、大槻先生のお陰なんですね。先生はご存じありませんが。
3月の終わり、早稲田へ退学届を出しに行きました。桜は満開、大学では卒業式が終わったところで、明日から散っていく仲間たちの歓声が花の裏から聞こえてきます。
この人たちは喜びの中でこの大学に別れる。おれはどうなのか。
ふたつの別れは、だいぶ違います。うしろめたい思いで大学をあとにしました。
しかし、いまでも早稲田時代の仲間たちは仲良くしてくれます。彼らの心の広さも、この時期に思う事柄のひとつです。
明日、目黒川の桜を見てきます。